五代友厚 ロンドン滞在(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Staying in London (Footprints)

五代友厚や薩摩藩留学生がロンドンで滞在していた場所をめぐりました。

I went to the places where Godai Tomoatsu and the other Satsuma students were staying in London.

ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(University College London)のメイン・ビルディングは、地下鉄ユーストン・スクエア駅(Euston Square Station)からガウアー・ストリート(Gower Street)沿いを南にすぐのところにあります。

ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ
ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ University College London

メイン・ビルディング右手のサウス・クロイスターズ(the South Cloisters)という建物の中庭に薩摩藩19名と長州藩5名の留学生の名が刻まれた記念碑(The Japan Monument)が建っています。

サウス・クロイスターズの入口
サウス・クロイスターズの入口 Entrance of South Cloisters

ロンドン大学サウス・クロイスターズ

「はるばると こころつどいて はなさかる」
碑の側面にあるこの歌は、留学生のひとり松村淳蔵が出立の折、詠んだものだそうです。薩摩藩19名の中にはもちろん五代友厚の名もあります。寺島宗則、町田久成、森有礼らの名も見えます。

薩摩藩留学生の記念碑
薩摩藩留学生の記念碑 The Japan Monument

中庭に出るにはドアを2つほどくぐりますが、大学の美術館も入っている建物ですので、中に入っても咎められることはありません。ちょうどキャンパスのあちこちで建て替え工事が行われていたせいか、記念碑に隣接してプレハブの仮教室が建ち、碑は若干見えにくい状態になっていました。

ガウアー・ストリート(Gower Street)103番のフラットは、幕末・明治期に多くの日本人留学生が住んでいたことで知られています。薩摩藩留学生の村橋久成も一時ここに下宿していたようです。このあたりは学生街だけあって本屋やカフェが充実しています。

幕末・明治に多くの日本人留学生が住んだガウアー・ストリート103番
ガウアー・ストリート103番 103 Gower Street

大学から西へ20分ぐらい歩くと、右手に豪奢なランガム・ホテル(The Langham Hotel)が見えます。1965年開業ですから、五代友厚らは新築でオープンしたばかりのときに泊まったことになります。地下鉄オックスフォード・サーカス駅(Oxford Circus)からなら北へ歩いて5分くらいのところです。

ランガム・ホテル
ランガム・ホテル The Langham Hotel
ランガム・ホテル
ランガム・ホテル The Langham Hotel

ランガム・ホテルの向いにチェーン店ながらローマ風薄皮パリパリのピザ店と「ちゃんとしたハンバーガー」が売りのハンバーガー店(Oxford Circus店は閉店)がありますが、どちらのレストランも手頃でおいしくお勧めです。

さらに西へ 20分ほどでハイド・パーク(Hyde Park)北側を東西に走る通り、ベイズウォーター・ロード(Bayswater Road)に出ます。留学生たちが一時居留していた場所ですが、どの建物に住んでいたのかはわかりません。

ベイズウォーター・ロード
ベイズウォーター・ロード Bayswater Road

地下鉄ランカスター・ゲイト(Lancaster Gate)を過ぎたあたりでハイド・パークを北から南へ横切ります。

ハイド・パーク
ハイド・パーク (Hyde Park)

ハイド・パークの南側に出ると、まるい形をしたロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)が見えます。

ロイヤル・アルバート・ホール
ロイヤル・アルバート・ホール Royal Albert Hall of Arts and Sciences

さらに南へ5分ぐらい歩くと、五代、新納、堀の3氏が滞在していたサウス・ケンジントン・ホテル(South Kensington Hotel)のあったクイーンズ・ゲート・テラス(Queen’s Gate Terrace)に着きます。6〜7階建ての真っ白いビルが並ぶ美しい通りです。

クイーンズ・ゲート・テラス
クイーンズ・ゲート・テラス Queen’s Gate Terrace

現在この地にホテルはありませんが、サウス・ケンジントン・ホテルはクイーンズ・ゲート・テラスの37–41番地にあったといいます。イギリスの番地は通りをはさんでジグザグに付番されますので、片方に偶数、片方に奇数の番地が並びます。41番はこの通りの南側の西の端です。

クイーンズ・ゲート・テラス41番
クイーンズ・ゲート・テラス41番 41 Queen’s Gate Terrace

ロンドン大学からサウス・ケンジントンまで歩いても1時間余りの距離です。サウス・ケンジントンは万博跡地にできた博物館や美術館が建ち並ぶ場所で、ここだけでも一日過ごせます。

<住所>
ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(University College London): Gower St, London WC1E 6BT
ランガム・ホテル(The Langham Hotel): 1C Portland Pl, Regent St, London W1B 1JA
元サウス・ケンジントン・ホテル(ex South Kensington Hotel): 37-41 Queen’s Gate Terrace, London SW7 5PN

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五代友厚 ロンドン滞在(2)
Godai Tomoatsu, Staying in London (2)

五代友厚らが宿泊した1865年のランガム・ホテル
ランガム・ホテル The Langham Hotel (Illustrated London News, 8 July 1865)

ロンドンに到着した翌日の慶応元年5月29日(新暦1865年6月22日)、留学生たちはケンジントン公園北側のベイズウォーター(Bayswater)の宿舎に移り、住み込みの英語教師とともに語学習得を目的とした共同生活を始めた。ここには長州藩留学生もよく訪ねてきていたようである。2ヶ月経って薩摩藩留学生たちはロンドン大学の教官宅へ2名ずつ分宿することになる。そして新学期の始まる8月中旬(新暦10月初旬)、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(University College London)での本格的な留学生活が始まった。

一方、五代友厚(当時は五代才助)と新納久脩(にいろひさのぶ)そして通訳の堀壮十郎(のちの堀孝之)は、サウス・ケンジントン・ホテルにとどまった。彼らは一時、1965年の終り頃にロンドン大学にほど近いランガム(The Langham)にも宿泊していたようだが、ここは一泊6ポンドもする当時のヨーロッパでも贅を尽くしたたいへん規模の大きなホテルであった。

五代、新納、堀は、留学生たちとは別の役回りがあり、慶応元年12月26日(新暦1866年2月11日)にマルセーユを出帆して日本への帰途につくまで、イギリス国内や大陸ヨーロッパを視察してまわった。この視察中、マンチェスターで紡績機、バーミンガムで銃を購入し、またベルギーとの商社設立計画、パリ万博への出展計画などに奔走した。滞欧中、五代は「欧羅巴に於て国家の基本なるもの二あり、『インヂストレード』『コンメルシアール』と云う」と書き送っており、産業と商業が「国力を充し、強兵に及ぼすことなり」との思いをさらに強めていた。

The Satsuma students moved to a house in Bayswater to develop their language skills. On the other hand, Godai, Niiro and Hori went on tours of inspection of Britain and European Continent.

<参考文献>
公爵島津家編輯所 『薩藩海軍史(中巻)』 1928‐29年
犬塚孝明 『薩摩藩英国留学生』 1974年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』 1974年
Andrew Cobbing, “The Satsuma Students in Britain: Japan’s Early Search for the ‘Essence of the West’”, 2000

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五代友厚 ロンドン滞在(1)
Godai Tomoatsu, Staying in London (1)

五代友厚らが宿泊していたサウス・ケンジントン付近の地図
サウス・ケンジントン付近 South Kensington(Map Of London 1868, Edward Weller, by MAPCO)

慶応元年5月28日(新暦1865年6月21日)、五代友厚と薩摩藩留学生は列車でロンドンに到着した。駅でトーマス・グラバー(Thomas Glover)の兄、ジム・グラバー(Jim Glover)が一行を出迎えた。留学生の一人である松村淳蔵の日記によれば、サウサンプトン上陸後、日本から同行していたグラバー商会のライル・ホーム(Ryle Holme)とジム・グラバーが電報のやり取りをし、彼らの到着時間を前もって知らせていたとのことである。留学生たちはわずか30分のあいだに電文が2往復したことを非常に驚いている。

当時の旅行ガイドブックBradshaw’s Hand Bookには、町ごとに電信局の有無が書かれている。電信局のない町は、何マイル先のどこに行けばあるかまで書かれている。交通が発達し人々の移動範囲が広がる中、電信がすでに重要な連絡手段のひとつとなっていたことがうかがえる。

馬車で30分ほど揺られて着いた宿は、サウス・ケンジントン・ホテル(South Kensington Hotel)であった。松村淳蔵はその日記に「甚美麗なる處にて、吾部屋は七階目の七十二番の部屋にて、右番付を見て漸く我部屋を尋出し候」と記し、宿賃は日に1ポンド、日本の二両一分に当たるとしている。ケンジントン地区は田園風景の残るロンドンの西のはずれといったところであったが、1851年にここで万国博覧会が開催されて以来、急速に都市化が進んでいた。

When Godai Tomoatasu and the Satsuma students arrived at the station in London, Jim Glover was waiting for them. Ryle Holm who accompanied the students on their voyage from Japan had sent a telegraph to Jim Glover from Southampton to inform their time of arrival.

<参考文献>
犬塚孝明 『薩摩藩英国留学生』 1974年
Andrew Cobbing, “The Satsuma Students in Britain: Japan’s Early Search for the ‘Essence of the West’”, 2000
George Bradshaw, “Bradshaw’s Hand Book”, 2012 (Old House Books, Facsimile Edition)
The Royal Borough of Kensington and Chelsea (https://www.rbkc.gov.uk)

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