
元治2年3月22日(新暦1865年4月17日)、五代友厚ほか薩摩藩の派遣留学生一行19名は、鹿児島市の北西に位置する羽島の港からイギリスに向けて出航した。香港まではグラバー商会の小型汽船を利用し、香港よりP&O社のマドラス(Madras)という大型客船にのりかえた。慶応元年4月11日(新暦1865年5月5日)にはシンガポールに到達している。
シンガポールの港で一行は、別離を惜しむオランダ人家族と出くわしたようである。教育のため子どもたちを自国へ送りだす父親とその家族の別れの光景をみて、薩摩藩留学生の筆頭引率者であった新納久脩(にいろひさのぶ)はひどく心を動かされ、そのときのことを息子への手紙に書いている。新納は洋行中に2人の息子を英仏それぞれに留学させる心づもりでいたが、帰国を前にして次男が亡くなり、まだ11歳だった長男ひとりをその後フランスに留学させている。
シンガポールからペナン島、セイロン島を経てインドのボンベイに達し、ここからはP&O社のベナルス(Benares)に乗船して、現イエメンのアデンからスエズに到着した。日本では元号が変わり慶応元年5月16日(新暦1865年6月9日)となっていた。寄港地では観光を楽しんだり、パイナップルやアイスクリームなどを食したとある。
19 Satsuma Students including Godai Tomoatsu left for Europe on 17th Apirl 1865 from Hashima, Kagoshima. They reached Suez on 9th June 1865.
<参考文献>
宮本又次 『五代友厚伝』 1980年
犬塚孝明 『薩摩藩英国留学生』 1974年
Andrew Cobbing, “The Satsuma Students in Britain: Japan’s Early Search for the ‘Essence of the West’”, 2000