五代友厚 天和銅山と和田村(足跡篇)

五代友厚が最初に手がけた鉱山、天和銅山のある奈良県吉野郡天川村の和田近辺を訪ねました。

中和田のバス停横に和田の案内板があります。天ノ川に沿って集落が広がります。

和田案内板
和田案内板 Wada Information Board

天川村全体の観光案内図です。和田は天川村の西部にあります。和田からは西へ向かうと五條、東へ向かうと下市に出ることができます。天川村の東部には修験道で有名な大峯山があります。大峯山と高野山をつなぐ道が天川村を通っていて、空海はこの道を歩いて高野山に至ったとされます。

天川村観光案内図
天川村観光案内図 Tenkawa-mura Information Map

中和田の案内板の向かい側にあるのは永豊寺です。案内板の隣りに永豊寺の収蔵庫があり、平安時代の仏像が安置されています。お寺にお願いすれば収蔵庫を開けてくださいますので、拝観も可能です。

永豊寺
永豊寺 Eihou-ji Temple

現在は浄土真宗ですが、もともとは曹洞宗のお寺だったそうです。

永豊寺石柱
永豊寺 Eihou-ji Temple

永豊寺の本堂に「大阪市 五代龍作」と書かれた寄進札がかかっていました。「一 槻八尺廻壹本、一 樅九尺廻壹本」とあります。木材を寄進したようです。

五代龍作 寄進札
五代龍作 寄進札 Godai Ryousaku Donation Tag

永豊寺から西へ向かって少し歩いたところに「てんかわ天和の里」があります。廃校になった天川西小学校の建物を活用した交流施設です。天川西小学校は、和田小学校と庵住小学校が統合したときの名前で、もともとは和田小学校でした。

てんかわ天和の里(旧天川西小学校)
てんかわ天和の里(旧天川西小学校) Tenkawa Tenwa no Sato (Former Tenkawa Nishi Elementary School)

明治7年(1874年)の開校当初は永豊寺を仮校舎としていたそうです。現在残っている校舎は、昭和18年(1943年)に村長を歴任した福智久継氏が私財を投じるとともに、地域の人々の土地の無償提供や労働奉仕により建てられたもので、総ヒノキ造りのたいへん立派な建物です。

てんかわ天和の里の廊下
てんかわ天和の里の廊下 Corridor of Tenkawa Tenwa no Sato

教室の一角に五代友厚を顕彰する展示がありました。天和鉱山についての説明もあります。五代友厚は、和田小学校のために建物を提供したり、寄付を行ったりしていました。

てんかわ天和の里の展示
てんかわ天和の里の展示 Exhibition at Tenkawa Tenwa no Sato

校舎の奥に広い畳敷きの図書館がありました。「五代友厚図書館」の看板が掲げられています。

五代友厚図書館
五代友厚図書館 Godai Tomoatsu Library

五代友厚や幕末明治時代に関する書籍がそろっています。五代友厚が登場する朝ドラ「あさが来た」のDVDもありました。

五代友厚図書館の本棚
五代友厚図書館 Godai Tomoatsu Library

小学校の裏手には美しい天ノ川が流れています。

天ノ川
天ノ川 Ten’nokawa River

さらに西へ向かってしばらく行くと、和田郵便局の手前に伊波多神社があります。式内社とありますから創建は千年以上前でしょう。元の社はもっと山側にあったそうです。

伊波多神社
伊波多神社 Iwata Shrine

伊波多神社の隣りに空き地があります。囚人労働者を収容する監獄所がここにあったようです。この建物は後に寄贈され、小学校の校舎として使われました。

伊波多神社横の空き地
伊波多神社横の空き地 Vacant Land next to Iwata Shrine

川沿いを西へ進むと栃尾に入ります。天和鉱山は和田村、栃尾村、九重村の3つの村にまたがっていました。栃尾観音堂を訪ねました。

栃尾観音堂
栃尾観音堂 Tochio Kan’non-do

栃尾観音堂には、円空佛と呼ばれる木彫りの仏像が安置されています。円空上人は日本全国をくまなく行脚し、旅をしながら生涯に12万体の仏像を彫ったと言われているそうです。素朴なやさしい表情の仏像です。

円空仏について
円空仏について About the Enku Buddha Statues

最後に天河大辨財天社(天河神社)を参拝しました。
芸術芸能音楽の神として知られる神社です。特に能楽と関係が深く、重要文化財の能面や能装束を多数所有しています。りっぱな神楽殿もあります。

天河大辨財天社
天河大辨財天社 Tenkawa Dai-Benzaiten Shrine

草創は飛鳥時代ということです。大峯山系の最高峰弥山の鎮守として弁財天を勧請し祀ったのがこの天河神社ということです。空海も参籠したと伝えられます。

天河大辨財天社
日本遺産 天河大辨財天社 Japan Heritage Tenkawa Dai-Benzaiten Shrine

拝殿には五十鈴と呼ばれる神宝が吊るされています。神事が厳かに執り行われていました。

天河大辨財天社 本殿
天河大辨財天社 拝殿 Tenkawa Dai-Benzaiten Shrine

<住所>
永豊寺:吉野郡天川村和田436
てんかわ天和の里(旧天川西小学校):吉野郡天川村和田477
伊波多神社:吉野郡天川村和田533
栃尾観音堂:吉野郡天川村栃尾
天河大辨財天社:吉野郡天川村坪内107

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五代友厚 天和銅山と和田村(2)

明治6年7月の天和山収支
明治6年7月の天和山収支 Income and Expenditure of Tenwa Mine in July, 1873

天和銅山では浦上キリシタンの信徒を使役していたこともあったようだ。江戸末期から明治初期のいわゆる浦上四番崩れで信徒たちは西日本各地に流配されたが、その一部は大和郡山藩にあずけられた。明治5年末、郡山にいた百余人の信徒のうち12歳〜20歳までの男女をのぞく全員が和田村の永豊寺と栃尾村の光願寺に移され、強壮な男子は天和銅山の採掘や運搬に駆使されたという。女子は何らの苦役も課せられなかったが、労働すれば物が十分に食べられるのでむしろ進んで労働に服したという。浦上キリシタンは明治6年春に釈放が決定され、天和銅山の信徒も子供たちと合流の後、5月には全員長崎へ帰着したというから、天和銅山で労働に従事していたのは3ヶ月ほどであっただろうか。

鉱山の開発は周辺の村々の発展も促した。和田村からは五条へ出るにも下市へ出るにも険峻な山坂難路であったが、天和鉱山と県、地元がそれぞれ費用を負担し牛馬が通行できる新道が開かれた。架橋、流水堰、井戸、水路などの普請もまた鉱山が工事費を出すことにより進んだ。和田村の永豊寺には寄進者として嗣子五代龍作の名前が残っているが、友厚の時代から村との協力関係は続けられていたものと推察される。

五代が天和銅山を入手した経緯は定かではないが、坂岡勇三郎が仲立ちをしたとも言われる。坂岡は鹿児島の人で、孫の坂岡勇次は鹿児島に五代友厚像を建立した人物である。坂岡勇三郎は龍作にも鉱山や殖林の世話をしたそうで、その関係で弘成館で働いていた伊藤豹三郎と親しくなり、豹三郎の養子である伊藤銀三が創業した伊藤銀證券株式会社に坂岡勇次が専務として勤めていたということである。伊藤豹三郎は余技として庭芸に秀でていたので、牡丹の見頃には五代友厚の家族を招き喜んでもらっていたという話も残っている。

<参考資料>
浦河和三郎『浦上切支丹史』1943年
河本寛編『史蹟花外楼物語 −明治維新と大阪−』1964年
三俣俊二『津・大和郡山に流された浦上キリシタン』2005年

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五代友厚 天和銅山と和田村(1)

和小学校ヘの寄付に関する文書
和田村小学校ヘの寄付に関する文書 Document regarding Donation to Wada Village Elementary School

奈良吉野の天和銅山は、五代友厚が手がけた最初の鉱山で、明治4年(1871年)に開坑して後、五代が明治18年に逝去するまで安定した利益を上げ続けた良鉱であった。天和銅山に対する五代の思い入れはひとしおであったはずである。大阪阿倍野にある五代の墓には、墓石から最も近い場所に「和州天和銅山職工中」と彫られた灯籠があって、天和銅山と五代の強い結びつきを推しはかることができる。

鉱山が開かれ盛況になると、山間部の人口が一時的にせよ爆発的に増える。天和銅山の全盛期には2〜3千人もの鉱夫が働き、毎日牛一頭を食用にしたというほどであったから、当然子供の数も増える。明治5年に学制が公布され、天和銅山のあった和田村にも小学校が設置されると、五代は鉱山で不要となった建物を小学校へ寄贈した。この建物は、県から鉱山労働のための「懲役人を拝借」するにあたり、明治5年に五代の経営する弘成館が建てたもので、明治9年より校舎として転用された。当時、懲役人を鉱山で外役させることは広く行われていたようだ。また、明治8年より11年まで和田村小学校へ350円を寄付し、明治12年からは年々100円を10年間寄付すると申し出たことも堺県の記録として残っている。

五代は、半田銀山など他の場所でも学校の設立や学費の寄付を積極的に行っていた。大阪市立大学の前身である大坂商業講習所設立の際も創立員として筆頭をなし、多額の寄付金や創立費を出している。五代は父や兄が薩摩藩の御用学者という家系で、教育に対する関心は高かったのだろう。東京出張中に妻である豊に宛てて「お竹へ学校へ参ずば、土産なしと伝言されたし」と書き送るなど、娘の教育にも熱心であった様子がうかがえる。

<参考資料>
大阪商工会議所編『五代友厚関係文書目録』1973年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第三巻』1972年

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