五代友厚 薩英戦争その後(足跡篇)

五代友厚と寺島宗則(松木弘安)が、薩英戦争後に江戸周辺で潜伏していた際の足取りをたどってみます。

文久3年7月11日(1863年8月24日)、英国艦隊が横浜に帰着すると、五代と寺島はユージン・ヴァン・リード(Eugene Van Reed)というアメリカ商人の手引きで小舟に乗り生麦村付近の海岸へ渡りました。奇しくも薩英戦争の発端となった生麦事件の起こった場所に上陸したわけです。清水卯三郎の指示に従い、彼らは「日本橋小舟町のはこべしほの隣りのすゞきという船宿」に向かいます。月もない暗闇を、大小を打ち捨て丸腰の身で、道案内もなく二人きりで歩く道中はさぞかし心細く辛かったであろうと想像します。(「生麦事件(足跡篇)」もご参照ください。)

生麦駅
生麦駅 Namamugi Station

生麦から日本橋まで七里、約28キロの道のりなので、明け方までには日本橋に到着する算段でした。しかし、小舟がなかなか岸へたどりつかなかったようで、寺島宗則によれば、川崎宿で一泊し翌日江戸へ向かったということです。清水卯三郎から駕籠には乗らぬよう言われていましたが、夜が明けてしまったため二人は駕籠を使い、ようやく昼ごろ指定の宿に到着しました。

旧東海道
旧東海道 Old Toukaidou Street

現在の日本橋は高速道路にすっぽり覆われ、「江戸名所ノ随一ニシテ其名四方に高シ」とうたわれた頃の面影はほとんどなくなっています。将来的には高速道路を地下へ移し、日本橋の青空が取り戻そうという計画もあるようですが、まだまだ先の話です。

日本橋
日本橋 Nihonbashi Bridge
日本橋
日本橋 Nihonbashi Bridge

今も小さな船着場があります。観光船が発着しているようです。

日本橋
日本橋 Nihonbashi Bridge

「慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス」とあります。日本橋は1603年に初めて架けられました。「徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス」ともあり、非常に繁華な場所であったことがわかります。

日本橋由来記
日本橋由来記 History of Nihonbashi Bridge

現在の日本橋は、明治44年(1911年)に架橋された石造橋です。親柱に記された橋名の揮毫は、第15代将軍・徳川慶喜の筆によるものだそうです。

日本橋 説明板
日本橋 案内板 Explanation Board of Nihonbashi Bridge

江戸時代の日本橋はこのようなところでした。人の多さもさることながら、舟のひしめき具合が想像を超えています。手前に魚河岸があり、橋の向こうには大店が並んでいます。当時は富士山も見えたようです。

日本橋真景并ニ魚市全図
日本橋真景并ニ魚市全図 一立斎広重 Nihonbashi Bridge

古そうな護岸が残っていました。

日本橋川の護岸
日本橋川の護岸 Revetment of Nihonbashi River

徳川家康は日本橋を五街道の起点とし、江戸を日本の中心としました。明治政府もこれを踏襲し日本橋に里程元標を置きます。さらに、大正時代には各市町村に1基ずつ道路元標を設置することが道路法で義務付けられたため、東京市はここ日本橋に元標を設置しました。

東京市道路元標
東京市道路元標 Tokyo Zero Kilometre Point

東京市道路元標はもともと橋の真ん中にあり、今はその場所に「日本国道路元標」の金属板が埋め込まれているそうです。この写真の日本国道路元標はそのレプリカです。

日本国道路元標
日本国道路元標 Japan Zero Kilometre Point
日本国道路元標
日本国道路元標 Zero Milestone in Japan

新日本橋駅の4番出口付近に、長崎屋跡の説明板がありました。長崎屋は薬種屋でしたが、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府時における定宿でもあったそうです。日本人の蘭学者・医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場、先進的な外国の知識を吸収する場として有名になったということです。

長崎屋跡 新日本橋駅
長崎屋跡 Old Site of the Nagasaki-ya
長崎屋跡
長崎屋跡 Old Site of the Nagasaki-ya

五代と寺島が向かった小舟町は、日本橋から東へ10分ほど歩いたところにあります。江戸時代には東堀留川、西堀留川という日本橋川につながる堀割が並んでいて、東・西堀留川に挟まれて小舟町と堀江町が、堀の突き当たりに堀留町がありました。堀は関東大震災後と第二次世界大戦後にすべて埋められました。現在は東堀留川の一部が堀留児童公園になっています。

堀留児童公園
堀留児童公園 Horidome Park

公園は埋めた堀の一部をそのまま残したものであるため細長い形状をしています。正確な場所はわかりませんでしたが、二人はこの近辺の船宿に泊まったということでしょう。

堀留児童公園
堀留児童公園 Horidome Park

<住所>
日本橋:東京都中央区日本橋1丁目1
長崎屋跡:東京都中央区日本橋室町4-4-1
堀留児童公園:東京都中央区日本橋堀留町1丁目1

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五代友厚 薩英戦争その後(2)

小船町
小船町(江戸切絵図)嘉永3年 Kobuna-cho (Edo Kiriezu) 1850

英艦で横浜に着いた後、寺島宗則と五代友厚が最初に入った宿は、日本橋小舟町にある船宿であった。当時、このあたりは堀留川の水運を利用した船荷問屋が多く集まり、諸国より運ばれてきた物産を商う問屋や商店が軒を並べる非常に活気あふれる場所で、船員らが寝泊まりする船宿もいくつもあったという。清水卯三郎は、表立った動きのできない寺島と五代によかれと、雑多な人々が出入りするこの場所を選んだのかもしれない。船宿に二晩泊り、翌々日の朝、寺島と五代は卯三郎の実家がある武州羽生村(現在の埼玉県羽生市)へ向けて出発した。文久3年7月14日(1863年8月27日)のことであった。

寺島と五代が姿を消し、薩摩藩では当然ながら二人を探し回るもなかなか見つからない。二人の潜伏中、薩英間では数回に渡る談判が行われていた。文久3年10月5日(1863年11月14日)の会談で和睦が成立すると、薩摩側は英側へ次のような質問を投げかけた。

一 貴国軍艦に乗組ませ被連趣候士官両人(寺島・五代)、此方へ引渡し呉候様いたし度候
一 右両人御当地へ、屹と上陸いたし候哉
一 軍艦を以て箱館へ相廻し、又は英国へ被送候様承知致候
一 右両人神奈川へ上陸いたし候哉、横浜へ上陸いたし候哉
一 何様に小舟に候哉
一 何日に両人上陸いたし候哉

両人は己の意志で横浜へ来たのであって、船中でも丁寧に取り扱った。両人の求めにより、著船したその日に彼らは小舟に乗り本船を離れた。それ以降のことは関知していない、というのが英側の返答であった。実際のところ、英側は五代らが江戸周辺にいることは薄々知っていたであろう。卯三郎がこのように書いている。

五代氏の手紙を持て横浜へ行き、イギリス公使館の書記ガバ氏を訪れ、かくかくとありしことを語らひはれば、ガバ氏、金五十両を取り出し、五代に渡してよと言ふ。すなわち受け取り五代氏に届けたれば、氏は大いに喜び、これにてしばらく心安しと言へりき。これより二度三度二十両三十両づつ取次たることありき。

すこぶる大金である。五代は長崎からグラバー(Glover)などを通じて、必要な金を送金してもらっていたのかもしれない。英側は、二人の動きを知り得たとしても口外しないと決めていたのだろう。

江戸では、さらに松本良順の助けがあったと言われる。松本良順は、寺島宗則と同じく医師で、寺島と同じ天保3年生まれ、五代より3才年上である。江戸に生まれ、実父である佐倉藩の藩医佐藤泰然の下で蘭医学を学び、その後長崎でオランダ人軍医ポンぺ(Pompe)から西洋医学の教えを受けた。同時期、五代は長崎海軍伝習所で学んでいたから松本良順のことを知っていたし、さらには、卯三郎も佐藤泰然からオランダ語を習ったことがあったという。長崎にいた松本がこのタイミングで江戸へ帰っていたのも運に助けられた。

<参考文献>
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
福澤諭吉『福翁自伝』1899年
公爵島津家編輯所編『薩藩海軍史 中巻』1928-1929年

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五代友厚 薩英戦争その後(1)

日本橋堀留
日本橋堀留(江戸名所図会) Nihonbashi Horidome (Edo Meisho Zue)

薩英戦争で捕虜となった寺島宗則(松木弘安)と五代友厚は、英艦ユリアラス(Euryalus)に乗せられ横浜に到着するや、すぐ自由の身となり、闇夜を小舟で渡って生麦付近に上陸した。文久3年7月11日(1863年8月24日)のことであった。薩英戦争直後の寺島と五代の行動については、五代らを助けた武州羽生村の商人清水卯三郎、清水や寺島と懇意であった福沢諭吉、寺島宗則の自叙伝、薩摩と英国の談判の記録等に記されている。それぞれ若干の差異はあるが、大筋は次のようなものである。

寺島と五代は、通訳として乗り込んでいた清水卯三郎に艦上で出会う。卯三郎は商人ながら蘭学に志があり、英語を学び、寺島とは以前より顔見知りであったという。横浜で、五代らはユージン・ヴァン・リード(Eugene Van Reed)というアメリカ商人に上陸の手助けを依頼した。卯三郎と寺島はこの米人とも知り合いであったらしい。卯三郎は、ヴァン・リードに8時頃までに生麦渡りへ乗りつけるよう頼み、寺島・五代とはこう言い交わした。

所々に見張りの番所あり、君たちもよく心し給へ、馬駕籠には必ず乗り給ふなよ、馬子や雲助の口より事表れしこと多くあり、必ず慎み給へ、我はこれより横浜に上がりて、運上所に免状を返し、すぐさま江戸へ行き、小舟町の「はこべしほ」に宿り、待ち居れば、君たちはその隣りの「すゞき」という船宿あり、これに来たられよ、宿屋は旅人の出入り繁ければ、事の漏れ易きを恐る、必ず誤り給うなよ、遅くとも夜明けまでには届くべし

しかし、寺島と五代は、翌朝8時を過ぎても9時を過ぎても来ない。わずか七里の道のりにこれほど暇取るとは、もしや捕われたかと卯三郎は心配するが、ようやく11時を過ぎた頃、二人が山駕籠に乗って現れた。聞けば、漕ぎ出たものの風の具合で舟は進まず、陸に上がれば月もなく星も見えない暗闇の中、さぐりさぐり足を進めるうち夜も明け、やむなく駕籠に乗り顔を隠してやっとたどり着いたのだという。

<参考文献>
寺島宗則研究会編『寺島宗則関係資料集 下巻』1987年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年
福澤諭吉『福翁自伝』1899年

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