五代友厚 浜崎太平次と紡績所(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Taheiji and Cotton Mills (Footprints)

前回に引き続き、鹿児島の指宿で濱崎太平次ゆかりの地を訪ねました。

This is a continuation of the last time. I walked around Ibusuki, Kagoshima to see the places related to Hamasaki Taheiji and the Shimazu Clan.

稲荷神社から県道238号をまっすぐ北へ進み、潟口へ向かいます。潟口第一橋を渡り、川沿いを海の方へ歩きます。

潟口第一橋
潟口第一橋 Gataguchi First Bridge

五間川と二反川が合流する河口部まで行くと、開けた場所に小船が係留されています。太平次の時代に潟口の船溜りと呼ばれていた港です。凝灰岩の護岸は、肥後の岩永三五郎が築いたといわれています。岩永三五郎は、西田橋をはじめとする鹿児島城下の甲突橋五石橋を架けた名石工です。現在は砂が溜まって川底が浅くなっていますが、当時は大船も入ることができたということです。小舟に下した積み荷は、水路を使って内陸に運搬されました。水路は船溜りから太平次の邸宅まで延びていたそうです。

潟口
潟口 Gatakuchi

なんと、この付近の川には「熱い温泉」が流れています。湯気が立ちのぼっているのがわかるでしょうか。

潟口
潟口付近 Near Gataguchi

二反田川に沿って二月田へ向かいます。二月田という地名は、揖宿神社の2月の祭事に使用する祭祀料のための水田が由来だそうです。

二反田川
二反田川 Nitanda River

JRの踏切を超えてしばらく行くと、左手に二月田温泉殿様湯があります。

殿様湯
殿様湯 Tonosama-yu Hotspring

現在は共同浴場になっていますが、今なおあちらこちらに島津家の家紋が掲げられています。島津の殿様は屋形舟で湯治に来ていたということで、水量の少ない二反田川に舟が入ると両岸から馬で引いて殿様湯まで運んだという話が残っているそうです。

殿様湯
殿様湯 Tonosama-yu Hotspring

指宿には島津家の温泉別荘が古くからおかれていて、元禄期までは摺ヶ浜、寛政9年(1797年)には弥次ヶ湯付近に長井温泉行館が設けられました。第6代濱崎太平次は長井温泉の外郭や石塀等を献上し、その功績を第9代藩主島津斉宣に認められ海運業をさらに発展させることができたといいます。

島津公別墅趾石碑
島津公別墅趾石碑 Monuments of Shimazu Family Villa
藩主島津公別墅趾
藩主島津公別墅趾 Old Site of Shimazu Family Villa
島津家別墅碑記
島津家別墅碑記 Explanation of Shimazu Family Villa

文政10年(1827年)、第10代藩主島津斉興が二月田に湯殿を造り、天保2年(1831年)に長井温泉行館をここに移しました。豪華な湯殿を備えたこの島津家の別邸は、俗に殿様湯と呼ばれるようになりました。きれいに敷き詰められた敷石やカラフルなタイルが目を引きます。敷石は山川石のようです。

殿様湯跡
殿様湯跡 Old Site of Tonosama-yu Hotspring

湯源から4つの湯つぼを次々にまわり、湯が適温になるよう工夫されていたということです。

殿様湯跡の説明板
殿様湯跡の説明板 Explanation Board of Tonosama-yu Hotspring

弘化3年(1846年)、藩主になる前の島津斉彬が二月田温泉を訪れていた際、別邸が火災に見舞われ濱崎太平次宅に避難した記録があるといいます。
また、第11代藩主となってすぐの嘉永4年(1851年)、薩摩半島沿岸を巡見した斉彬は、33日間の日程のうち22日間も指宿に滞在し、太平次は豪華な接待で新しい殿様を迎えました。
斉彬は安政5年7月(1858年8月)に急死しますが、同年4月に山川に咸臨丸が入港すると斉彬はすぐに山川へ向かい、咸臨丸を訪れそのまま鹿児島まで同乗しています。このとき斉彬は二月田温泉に滞在中でした。咸臨丸は、勝海舟をはじめとする長崎海軍伝習所の伝習生らが訓練のため航行させていたもので、五代友厚もこのとき海軍伝習所で学んでいましたから、勝海舟らとともに咸臨丸に乗り込んでいた可能性もあります。

殿様湯跡
殿様湯跡 Old Site of Tonosama-yu Hotspring

殿様湯の南側に、湯権現神社と八幡宮が並んで建っています。

湯権現神社と八幡宮
湯権現神社と八幡宮
八幡宮と湯権現由緒
八幡宮と湯権現由緒 History of Hachimangu and Yunogongen Shrines

湯権現神社は、第5代濱崎太左衛門貞章が創建したものです。もともと長井温泉にありましたが、長井温泉行館が二月田に移築された際、湯権現神社も一緒に遷座しました。海に近い湊地区の稲荷神社も太左衛門の創建と言われます。島津家は代々稲荷神の崇敬厚く、太左衛門は島津家のために稲荷神社を建てたのかもしれません。

湯権現碑
湯権現碑 Explanation of Yugongen Shrine

殿様湯の少し先にある揖宿神社を訪ねました。
1300年以上も前に創建されたといわれる古い神社です。鳥居は潟口の護岸と同じく岩永三五郎の作ということです。

揖宿神社
揖宿神社 Ibusuki Shrine
揖宿神社案内
揖宿神社案内 History of Ibusuki Shrine

現在の社殿は、弘化4年(1848年)に島津斉興の命で建てられました。

揖宿神社社殿
揖宿神社社殿 Ibusuki Shrine

斉興が社殿を改築した際に、調所笑左衛門広郷が寄進したという手水鉢も残っています。調所は、莫大な借金を抱える薩摩藩の財政を立て直しましたが、その政策を支えたのが濱崎太平次ら海商でした。

揖宿神社の手水鉢
揖宿神社の手水鉢 Washbasin at Ibusuki Shrine
手水鉢説明板
手水鉢説明板 Explanation Board of Washbasin

JR二月田駅から指宿駅へ戻ります。

二月田駅
二月田駅 Nigatsuden Station

駅名板にも島津家の家紋が。

二月田駅
二月田駅 Nigatsuden Station

白黒に塗り分けられた列車が通過しました。「いぶすきの玉手箱」という特急列車です。景色を眺められるように窓側を向いたソファや回転椅子が備えられている豪華列車だそうです。特急なので二月田駅には止まりません。

二月田駅
特急「指宿のたまて箱」 Ibusuki no Tamatebako Train

指宿駅に到着です。

指宿駅
指宿駅 Ibusuki Station

天璋院篤姫も指宿にゆかりがあります。篤姫の実家である今和泉島津家の別邸は、現在の指宿市立今和泉小学校の敷地にありました。
ちなみに、篤姫と五代友厚は同い年で、篤姫が生まれたちょうど1週間後が五代友厚の誕生日です。小松帯刀や坂本龍馬も同じ天保6年生まれです。

指宿駅
指宿駅 Ibusuki Station

指宿駅から線路沿いに南へ10分ぐらい歩くと時遊館Coccoはしむれ(指宿市考古博物館)があります。隣接する橋牟礼川遺跡が名前の由来です。指宿の歴史に触れることができます。

指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ
指宿市考古博物館 時遊館COCCOはしむれ Ibusuki Archaeological Museum

第9代濱崎太平次の写真を発見。上品で優しそうな風貌です。9代目は18歳で8代目である父の跡を継ぎ、五代友厚らの洋行を援助するなどしましたが、わずか21歳で夭折しました。

第九代濱崎太平次
第九代濱崎太平次 Hamasaki Taheiji VIIII

<住所>
潟口の船溜り:指宿市大牟礼/十二町
二月田温泉殿様湯:指宿市西方1408-27
湯権現神社:指宿市西方1408
揖宿神社:指宿市東方733
指宿市考古博物館 時遊館Coccoはしむれ:指宿市十二町2290

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五代友厚 浜崎太平次と紡績所(2)
Godai Tomoatsu, Taheiji and Cotton Mills (2)

大阪薩摩藩邸と薩摩屋
大阪薩摩藩邸と薩摩屋 Premises of Satsuma Domain in Osaka and the “Satsumaya”

濱崎家ヤマキの大阪支店は、立売堀の薩摩藩下屋敷そばに店舗を構え薩摩屋と称した。薩摩屋を瞥見した人物によれば「ヤマキは床下に設けてあった大きな穴の中にバラに入れた銭を箒木を以って掃き込んで居た」という。薩摩屋は、慶応3年(1867年)に開業した鹿児島紡績所と明治3年(1870年)に開業した大阪堺紡績所の綿糸布の販売と繰綿の買い入れを引き受けていた。

堺紡績所は、明治3年4月8日(1870年5月1日)にエンジンの試運転が始まり、五代もこの日紡績所を訪れている。同年7月16日に初めて綿糸が紡出され、22日に石河確太郎と薩摩藩諸士が集まり綿糸の売り捌き方について相談、24日に五代は託された綿糸の見本を藩侯に献上し、同日堺紡績掛を命ぜられた。堺紡績所の開業日は12月24日とされ、翌日五代は紡績所規則を制定している。

堺紡績所は明治5年に官営となり、鹿児島紡績所も明治4年の廃藩置県後は商社組織となった。しかし、どちらも一貫して島津家の掌管であることに変わりはなく、明治11年、島津家は年賦償却の条件で濱崎家に両工場を払い下げた。堺紡績所は濱崎の代理人、薩摩屋の総支配人であった肥後孫左衛門が実質的に経営した。肥後の未亡人によれば、隔日ぐらいで堺紡績所へ出勤する一方、銀行のことにも携わり、綿花を鹿児島へ送るようなこともしていたという。

ヤマキは明治に入り砂糖運輸の特権を失い、廃藩置県後は島津家との関係も薄れた。第10代濱崎太平次は遊蕩三昧となり、持船が次々と沈没する不幸も重なって、ヤマキの事業はとうとう頓挫し、紡績所も手放すことになる。濱崎太平次は明治21年に鹿児島を離れ、大阪で車夫として人力車を引く哀れな生活を送っていたらしい。そうした中むかし馴染みの芸妓と奇遇し、彼女は太平次を家に迎え入れると、太平次が63歳で瞑目するまで総てをみたという。

Hamasaki Taheiji was involved with Kagoshima Cotton Mill and Sakai Cotton Mill which Satsuma Domain built in the late 1800s. Both mills were installed British made spinning machinery that Godai Tomoatsu purchased in England in 1865.

<参考資料>
絹川太一『本邦綿糸紡績史 第1巻』1937年
浜崎太平次顕彰会編『濱崎太平次傳』1935年

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五代友厚 浜崎太平次と紡績所(1)
Godai Tomoatsu, Taheiji and Cotton Mills (1)

プラット社の粗紡機
プラット社の粗紡機 Platt’s Soving Frame, c. 1858

第11代薩摩藩主島津斉彬は、安政5年頃より鹿児島近郊の田上、永吉に水車館を建て、水力による機械織布を試行し始めた。それより先、中村にも工場を作り、ここでは手紡と棉作を行っていた。

一方、指宿の豪商第8代濱崎太平次は、琉球から持ち帰った西洋糸を斉彬に献上する。この糸を見た斉彬は「将来、日本の膏血を絞るものは是なり」と慨嘆し、紡績織布の機械化を急がせたという。斉彬は特に帆布の生産に力を入れた。藩船が増えるに従い、他産地の高価な帆木綿や輸入綿帆布を購入し続けることは負担となっていて、藩内での自給を目指した。貿易や造船を家業とし30艘以上の大船を所持していた濱崎家にとっても、渡りに船といったところであろう。

濱崎家のヤマキは綿花も手広く扱っていた。1861年にアメリカで南北戦争が始まると世界的に綿花が不足する事態となり、ヤマキは繰綿をイギリスや香港へ向け輸出していたという。文久3年12月24日(1864年2月1日)、薩摩藩が幕府より借用してた長崎丸が長州藩により砲撃され、炎上、沈没したが、このときヤマキが載せていた繰綿も焼失した。翌年2月12日にも、ヤマキが大阪で買い付けた繰綿を積載していた嘉徳丸が長州藩の義勇隊に焼き討ちされている。襲撃の理由は薩摩藩の密貿易に対する義憤という。

斉彬の死後10年近くを経た慶応3年5月(1867年6月)、遂に鹿児島紡績所が完成する。設置した紡績機械は、五代友厚と新納久脩がイギリスで購入してきたプラット・ブラザーズ社(Platt Brothers Co.)製のものである。そして、翌年には鹿児島紡績所の機械を大阪の堺へ送り、堺紡績所を建設する運びとなった。濱崎家はこれら2つの紡績所の経営にも関わることになる。

Hamasaki Taheiji obtained western cotton yarn in Ryukyu islands and offered it to Nariakira Shimazu, the lord of Satsuma Domain. Once he confirmed the excellence of western cotton yarn, Nariakira urged his retainers to rush the development of spinning machine in their own country.

<参考資料>
絹川太一『本邦綿糸紡績史 第1巻』1937年
浜崎太平次顕彰会編『濱崎太平次傳』1935年
水田丞『幕末明治初期の洋式産業施設とグラバー商会』2017年

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