五代友厚 英艦の宇和島来訪(足跡篇)
Godai Tomoatsu, Visit of British Squadron to Uwajima (Footprints)

幕末宇和島の砲台跡などを見て回りました。

I visited Uwajima and saw the old sites of gun batteries built at the end of the Edo period.

まず、港の北側にある宇和島市歴史資料館を訪ねました。
洋風の建物が目を引きます。洋風ながら実は木造瓦葺で、明治の初めに日本の工匠たちが西洋の技法を取り入れながら苦労と工夫を重ねて完成させた建物です。国登録有形文化財になっています。

宇和島市立歴史資料館
宇和島市立歴史資料館 Uwajima City Historical Museum

この建物は、明治17年(1884年)に宇和島警察署として建てられ、もとは宇和島城南の広小路にありました。昭和28年(1953年)に宇和郡西海町(現在の愛南町)に移築され、平成2年(1990)まで町役場として使用されていましたが、平成4年(1992)に再び移築されて、ここ宇和島の地に戻ってきたということです。

宇和島市立歴史資料館 建物の由来
宇和島市立歴史資料館 建物の由来 The Origin of the Building of Uwajima City Historical Museum

資料館では、地図や写真で宇和島の変遷を辿ることができます。1600年代初めの地図を見ると、五角形の宇和島城の2辺は海に面し、残り3辺は濠に囲まれていたことがわかります。また、赤いシールの貼ってあるところが現在地、つまり樺崎の埠頭と砲台があった場所で、ここは海沿いだったことがわかります。

17世紀初頭の宇和島地図
17世紀初頭の宇和島地図 Uwajima Map Early 17th Century

薩摩藩の大砲模型もありました。詳細は不明ですが、宇和島藩と薩摩藩のつながりを示すもののようです。

薩摩藩火砲模型
薩摩藩火砲模型 Cannon Replica

宇和島市歴史資料館は、樺崎砲台跡の隣りに移築されています。資料館2階のバルコニーから砲台跡全体を見渡すことができます。

樺崎砲台跡
樺崎砲台跡 Kabasaki Battery

ここは樺崎お揚場という埠頭だったところで、その拡張工事とともに砲台が築造され、安政2年(1855年)に完成したということです。今はすっかり陸地ですが、当時は海を埋め立てて台場を築くのは難工事でした。青銅製の大砲が5門あり、英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)が来訪した際は、この樺崎砲台から礼砲が打たれました。

樺崎砲台跡説明板
樺崎砲台跡説明板 Explanation Board of Kabasaki Battery

砲台の記念碑は、漢学者金子孝太郎の撰文により、安政3年に建てられたものだそうです。石に刻まれた文字は読めませんでした。

樺崎砲台跡
樺崎砲台跡記念碑 Monument of Kabasaki Battery
樺崎砲台跡説明板
樺崎砲台跡説明板 Explanation Board of Kabasaki Battery

台場はたいてい両岸に築かれ、船を挟み撃ちするようになっています。樺崎砲台の向かい側にあったのは恵比須山砲台です。元治元年(1864年)に築造されたといいますから、樺崎砲台よりはだいぶ後ですが、ハリー・パークスやアーネスト・サトウ(Ernest Satow)の艦が来航した頃には、すでに樺崎と恵比須山の両岸に大砲が備えられていたことになります。恵比須山(もしくは戎山)は宇和島湾と九島の間に突き出た小さな半島で小高い山になっています。砲台は山上に設置されていたようです。

戎ヶ鼻
戎ヶ鼻 Ebisugahana

半島の先端に戎神社があります。
17世紀半ばに兵庫県西之宮より勧請し、代々伊達家の直轄として祭事が執り行われていたということです。
恵比須山は藩のお狩場でもあり、伊達宗城公は桜田門外の変を恵比須山での鹿狩り中に知ったといいます。

戎神社
戎神社 Ebisu Shrine
戎神社由緒
戎神社由緒 History of Ebisu Shrine

最後に九島の遠見場に行きました。
2016年に橋が架けられ、宇和島と九島は今は船に乗らずとも行き来することができます。本九島のバス停から山の方へ向かって農道をしばらく歩くと遠見場の入口に着きます。地元では「とんば」というそうです。

遠見場入口
遠見場入口 Entrance of Tonba Lookout Place

入口から5分ほど山道を登ると遠見場に出ました。山道は細く険しいですが、遠見場には広いスペースがあり椅子やテーブルまで用意されています。
遠見場からは、日本一細長いとされる佐田岬とさらにその先の九州大分の佐賀関まで見通すことができます。この巨大な遠見岩の上は海抜148メートだそうです。

遠見岩
遠見岩 Lookout Rock

宇和島藩では、参勤交代や江戸、上方への公用の際の通信手段として、佐田岬の塩成から城下までの間に5ヶ所の狼煙場を設けていました。城下に一番近い狼煙場がここ遠見で、英艦来航の際はここから狼煙を上げ、それを合図に樺崎砲台で祝砲を放ったということです。

遠見場
遠見場 Tonba Lookout Place

まさしく絶景です。九州の近さに驚きます。
ここに来るまでの景色も美しく、みかんの木がたくさん植わっているので、アゲハチョウがたくさん飛んでいました。自転車で島を一周することもできます。

遠見場からの眺め
遠見場からの眺め View from the Tonba Lookout Place

<足跡>
宇和島市立歴史資料館:宇和島市住吉町2丁目4-36
樺崎砲台跡:宇和島市住吉町2丁目4
戎神社:宇和島市坂下津
九島遠見岩:宇和島市本九島

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五代友厚 英艦の宇和島来訪(2)
Godai Tomoatsu, Visit of British Squadron to Uwajima (2)

樺崎炮台之図
樺崎炮台之図 Kabasaki Battery

宇和島藩家老松根図書は、英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)の宇和島訪問を長崎奉行に承諾させるが、その同じ日、慶応2年6月7日(1866年7月18日)に幕府軍が周防大島を砲撃し、第二次長州征伐が始まった。宇和島藩はしぶしぶ三机に兵を留め置いていたのだが、英艦隊の来藩という理由ができたため出兵猶予を願い出た。すでに長州と手を結んでいた薩摩にとっても宇和島が征長に与しないことは好都合であったから、五代友厚がこの動きに裏で一役買っていたとしても不思議ではない。

英艦は鹿児島を訪問した後、6月24日にサーペント号(Serpent)とプリンセス・ローヤル号(Princess Royal)が、27日にパークス乗艦のサラミス号(Salamis)が宇和島に入港した。パークスが遅れたのは下関に立ち寄っていたためである。城内での調練、伊達宗城・宗徳公の乗艦、南御殿で日本風の饗応、船旗の交換など連日歓待を受け、英艦3隻は7月2日に横浜へ向け出航した。

英艦は2度来宇しており、同年12月1日(1867年1月6日)にはアーガス号(Argus)がラウンド中佐(Round)と英公館通訳アーネスト・サトウ(Ernest Satow)らを乗せて寄港した。サトウによれば、湾の両側には砲台があって、小山の中腹には射的場があり、宇和島とイギリスの両兵が射撃の腕を披露した。夜は砲兵隊長入江左吉の家に招待されて酒を酌み交わし、御殿では伊達宗城・宗徳公、松根図書らと酒を酌み交わし、歌い踊って、最後は松根家で松根内臓や林謙三(安保清康)らと一緒の部屋に寝たという。サトウは陽気で親切な宇和島の人々に惹かれたようで、別れをたいそう惜しんでいる。

宇和島を出たアーガス号は12月6日に兵庫へ着船するが、このとき薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、そして五代友厚らが滞阪中であった。五代から松根図書に宛てた手紙によれば、五代は10月下旬からすでに上阪していたようだ。サトウは兵庫で西郷に会い、12月5日に徳川慶喜が征夷大将軍に就任したことや長州征伐、兵庫開港問題などを話し合っていて情報収集に余念がない。

<参考文献>
アーネスト・サトウ著 坂田精一訳『一外交官の見た明治維新 上』1960年
宇和島・吉田旧記刊行会『宇和島・吉田旧記 第7輯 松根図書関係文書』1999年
三好昌文『幕末期宇和島藩の動向 -伊達宗城を中心に- 第1巻』2001年

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五代友厚 英艦の宇和島来訪(1)
Godai Tomoatsu, Visit of British Squadron to Uwajima (1)

松根家の旗印
松根家の旗印 The flag of Matsune Family

ヨーロッパ視察を終えた五代友厚は、慶応元年12月(1866年2月)帰国の途につき、上海経由で慶応2年3月11日(1866年4月25日)、鹿児島城下に到着した。約1ヶ月後、五代は再び長崎在勤を命じられるが、英国にいる町田久成に宛てた5月6日付書簡では「片時も寸暇を得不申」「此度出崎の儀も、当月中には用弁」とあり、鹿児島ではベルギー商社やパリ万博準備のため多忙を極め、長崎に戻ったのは5月後半だったようだ。この手紙には「私供帰国仕候節は、既に長崎迄出掛居候位、米行の人数五人は、最早出航相成申候」とも書いてあり、薩摩藩がアメリカへ留学生を送ろうとしていたことがわかる。

一方、宇和島藩の家老松根図書は、慶応2年5月16日(1866年6月28日)に宇和島を出発し、同月29日長崎に至る。その間毎日雨風に打たれ毎日酒を呑んでいたことが日記に書いてある。長崎で息子の内臓に会い西浜町横町の尾崎屋卯吉へ到着。そこへ萩森厳助、矢野安木三郎、五代友厚、山田屋、服部某と芸妓3人が来て宴会が始まった。その後も図書は長崎を出発するまで毎日のように五代らと会い酒宴を開いている。もちろん仕事も精力的にこなし、この間鳴滝のアレキサンダー・フォン・シーボルト(Alexander von Siebold)の所へ行き、英国領事館で領事らに会い、さらに長崎奉行に話を通して、英公使ハリー・パークス(Harry Parkes)が宇和島を訪問する手はずを整えた。

松根図書や息子の内臓らは自藩の蒸気船「天保録」で6月8日に長崎を出港、小倉経由で6月11日に宇和島の樺崎に帰着した。松根内臓は、それより前4月17日に長崎から上海へ渡り「火船」を購求している。宇和島藩は、庄屋矢野安木三郎の斡旋により蘭商人アルベルト・J・ボードウィン(Albertus Johannes Bauduin)所持の蒸気船を買い入れたのだ。内臓は上海にいる間、薩摩藩の米行き留学生5人と何度か会って話をし、長崎で薩摩藩の野村宗七から預かってきた手紙を手渡している。内臓が上海から長崎に戻ったのは4月29日であった。

<参考文献>
宇和島・吉田旧記刊行会『宇和島・吉田旧記 第7輯 松根図書関係文書』1999年
日本経営史研究所編『五代友厚伝記資料 第四巻』1974年

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